個人の自由と監視社会の信頼関係


 

私たちは自由を十分に手に入れた。行動の自由、思想の自由、内心の自由、表現の自由、これらの自由権は、原始社会を除けば過去最大に保証されていると言ってよいだろう。

一旦手に入れた自由権は、誰も手放したくない。
現在国会で審議中の「テロ等準備罪」は内心の自由に踏み込むものであり、政治と警察の国家権力によって恣意的に罪のない人々のプライバシーが監視される可能性が高い。さらに、その場合に罪でなかったとしても、勘違いによる監視が行われていたことを本人に知らされないままとなる。

一方、観光や経済活動の目的で増加する外国人が増えることで、テロの危険性も高まるのは間違いない。さて、我々はこれをどのように捉えればよいだろうか。プライバシーや内心の自由の一部を権力に譲り渡し、安全で信頼できる社会に安住できるならば、そのバランスによって歓迎すべきなのかもしれない。

監視社会といえば、ビッグデータによって、我々のインターネット接続時のプライバシー情報は、つまりどんなサイトに興味を示しているか、インターネット上にどのような発言をしているか、どのような記事を見ているか、何を購入しているか、どのような思想をもっているか、経済的に豊かか貧しいか、そうした個人情報がさまざまな手段で収集されているという。

このことについて、どう捉えたらよいのだろう。

インターネットを通じての詐欺商法、ハッキング、その他もろもろの犯罪は次から次へと考え出されている。もし事前に犯罪を起こしそうな人物の資質を人工知能で見極められるようになれば、強盗などの凶悪犯罪を事前に発見できるのかもしれない。

他方、私たちがテレビや新聞などからマスメディアを通じて取得する情報、インターネットを通じて取得する情報について、ファクトかフェイクかを見極めなくてはならない。情報は私たちの頭脳の中で物語をつくる。マスメディアがスクラムを組めば、国民に虚偽幻想の物語を信じこませることができる。政府権力とマスメディアが結託してそれを行うこともあるだろうし、グローバル企業がマネーの力でマスメディアと結託してそれを行うこともあるだろう。発想を転換すれば、インターネットのお陰で透明性のあるプラットフォームが増え、もちろん自由な言論空間での情報は玉石混交にはなるが、リテラシーを鍛えればテレビと新聞の時代よりもファクトの情報を掴めることになる。

明らかに、人類文明における大きな潮流の分水嶺に私たちはいる。

 

以上を意識しつつ、過去の哲学者の理論に考察の翼を拡げてみよう。以下のテーマを提案することで今回の断想のまとめとしたい。

自由を享受するには、その自由に伴う責任が必要不可欠です。テロ防止や安全保障の観点から、内心の自由やプライバシーの一部を譲ることで安全を確保するという選択肢は、一見矛盾するように見えるが、実は古典的な哲学的ジレンマである。
この矛盾は、社会契約論的視点から考えることもできる。ホッブズやルソーの議論をもとに、国家が治安維持を保障するために、個人は一定の自由を放棄するという社会契約の概念について再考してみたい。

国家権力による監視が増大することで、私たちは「監視されている自分」を意識し、行動や思想に制限をかけるようになる。ここで考えたいのは、フーコーの「パノプティコン」やハンナ・アーレントの全体主義批判が指摘したように、内面の自由が損なわれることによる、主体性の崩壊という問題である。監視社会において、個々人がどのように自己を守り、主体的であり続けることができるのだろうか。

私たちは、自分のプライバシーを監視する民間企業や国家機関にどれだけ信頼を置けるのか。ジョン・ロールズの正義論や現代の倫理的監視社会の哲学的基盤を探り、企業や国家を含めた社会全体の透明性および倫理性と、私たちが獲得した個人の「自由権」との関係性について考察を深めていきたい。

 

 

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