理解されたい客体


人には、自分のことを他者に理解してほしいという欲求がある。正しく自分について理解してほしいと。承認欲求や自己実現欲求には他者が必ず絡む。え?自己実現欲求って自分だけのことではないの?と思うかもしれないが、自己実現というふうに自己という言葉を客観的に使っている時点で、自己と他者の二つの対立概念をつくっており他者を意識している。自己実現には外部への自己表現が含まれる。もし他者を意識しないのであれば、自己も意識しない。客観的に自己という対象を設定しない。

さて、理解されたいというのは、自分を客体的対象として見ている。主体は理解する側にあると言外に位置付けている。飲食店もホテルも洋服屋も八百屋も、店舗を構えて客を待つ。主体は客であり、店舗は客体である。客の関心を得ようとしたり客の利益になることをアピールしたりするなどして、客に金銭を支払ってもらうことによって自分の利益にしようとする。どれほど複雑に見える事業やプロジェクトも、価値観を分解すれば実は単純な構造である。

他方、人間という個人については、「心」の理解と、「頭」の理解がある。

古い日本語では「情」をこころと呼んだ。読んだではなく呼んだ。心の理解は情の理解であり、頭の理解は知の理解である。知とは、おおむね、論理に言い換えてよいと思う。情の理解と論理の理解を、表現によって為すことができるとしたのが西洋文明である。自分が考えていることや心にある感情を、表現によって他者に伝えなければ意味がないと彼らは考えた。伝達表現は言語が中心であり、絵画や音楽もツールとした。

ここで問題となるのは、「理解されたい」「正しく理解されなければ意味がない」という思想にある。文章を書くにしても、万人に対して、普遍的に正しい意味がわかるように説明しなさいということを求められる。特にアングロサクソンの文化にその思想は濃い。ゆえにアメリカの学術書には具体的事例が嫌というほど書かれており、くどい。

理解されるということに価値を置く価値観についての研究は後日にするとして、理解されなくてもよい、というところに価値を置く価値観もあるということだけ、今回の断想で言及しておく。

読者は本を選ぶ。本や著者は読者から選ばれる。ふつうは。

私はニーチェ風にそれを逆転する価値観のほうに軸足を置く。それは傲慢だという批判は勝手にやってほしい。その批判者は読者にならなくてよい。

著者が、読者を選ぶ。

そういう内容のものを、今後も書いていきたい。

 

 

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