独創哲学の仮メニュー/2023年8月版


ターゲットは五千年後の子どもたち。

人類哲学の原理の理論体系を、網羅的に独創する。(ChatGPTが相棒)

五千年後まで色あせない普遍的な理論体系でなければならない。

 

1.構造原理(Structural Principles)

 〇 認識原理論(インプット・解釈・表象)
   Principle of Cognition (Input, Interpretation, Representation)

 〇 発現原理論(アウトプット・表現・創造)
   Principle of Expression (Output, Expression, Creation)

2.意味原理(Principles of Meaning)

 〇 概念原理論(イメージ・言語)
   Principle of Concept (Imagery, Language)

 〇 価値観原理論(価値・価値観の確立原理)
   Principle of Value and Belief (Establishing Values and Beliefs)

以上の4理論および相互関係を立体的に創造する。

4理論を下記の各種理論を創造する土台とし、人類哲学の基礎原理とする。

 

3.各種理論(Diverse Theories)

 〇 思考論
   Theory of Thinking

 〇 感情論
   Theory of Emotion

 〇 欲求論
   Theory of Desire

 〇 志向性論
   Theory of Orientation

 〇 社会関係論
   Theory of Social Relations

 〇 倫理論
   Theory of Ethics

 〇 思想論
   Theory of Thought

 〇 宗教論
   Theory of Religion

 〇 自然論
   Theory of Nature

 〇 時間論
   Theory of Time

 

以上が基礎原理に上積みされる各種理論。(予定)

 

 

思想というモンスター


哲学と思想を対比するとき、思想の領域の広さに絶望する。無限に枝分かれしていく価値観が思想を創る。だから思想の数は無限にある。哲学は一つの原理に収斂していく性質があり、思想は多元的かつ多様的に拡散していく性質をもつ。

人間はこのように生きたほうが良い、社会はこうなるほうが良い、こうなるほうが良いのだから、こうなるべきだ。というふうに思想は語る。善い悪いの善悪や役に立つ立たないの損得、美しい醜いの感性的価値、相対的比較のプラスとマイナスの二極があり、それを思想は語る。絶対的価値と言っても「価値」づけていることに相対比較が隠されている。

思想は怪物である。モンスターだ。魅惑的でもあり高圧的でもある。

個人の信念や美学、信条は主観的であり、それを他者に押し付けなければ主観にとどまるが、思想は客観的に語られ、世界の普遍的真理のごときである。思想を社会的原理に応用したのがイデオロギーだ。イデオロギーとは、機械的なシステムのように社会原理を設計し固定化しようとする思想だ。共産主義、民主主義、自由主義、個人主義(individualism)、…すべてイデオロギーである。

実存主義、唯物論、唯心論、独我論、そうした一つの原理で世界を正しく解釈できるというのも、私の分類においては思想である。

 

さて、私は個人的な生きかたの美学をもつが、社会はこうなると良いとか社会はこうあるべきだとか、正しい一つの解釈があるとか、人間はこう生きるべきだとか、そういう類のものは私にはない。元からなかったわけではなく、積極的に失っていったといえる。私に思想はない。

 

 

価値観の現象学的性質


昨日の断想で見てきたように、価値観には連続的同一性の性質がある。毎分毎秒、外部からの情報や内面での思索、環境や身体状態によって価値観は刻々と変化するが、分断されることなく滑らかに連続している。

そのほかの現象学的性質について、項目に分けて議論していこうと思う。

 

1.価値観の固有性と共有性

価値観は個人固有のものである。固有になるにはどのような原理がはたらいているのか。一方で個人間から国家間にいたるまで、価値観には共有されるという性質がある。共有性には帰属欲求も絡む。固有性と共有性の相互関係性について考えを深めていく。

2.価値観の非分断的持続性

時々刻々と価値観は変化するが、途切れることなく連続している。アイデンティティの同一性に価値観の連続性はどのように関与しているのか。記憶の連続性と価値観の連続性について考えを深めていく。

3.価値観の感情性

価値観は欲求を生む。欲求は感情を生む。価値観は間接的に感情に結び付く。価値観が人間の心と結びつくことによって感情を生み出す原理について明らかにしていきたい。

4.価値観の意識性と無意識性

価値観は無意識領域に根付くと考えられるが、意識性が内省となって変容していく場合もある。価値観がどのように無意識に浸透し、どのように意識に現れるのか。

5.価値観の受容性

他者の価値観から影響を受け、自己の価値観が変化していく性質について。

6.価値観の影響付与性

自分の価値観を表現することによって他者に影響を及ぼし、他者の価値観が変化していく性質について。

7.価値観の多様性と相対性

8.価値観の統合性と矛盾性

9.価値観の発展性と変容性

 

価値観の現象学的性質について、現時点で項目別に分解してみた。今日の記事と7月25日の断想記事「『価値観原理』構想」の章立てをミックスさせ、価値観原理についての地図を網羅的に描いていく。

 

 

同一性


同一性について、少し考えてみよう。

自己同一性のことをアイデンティティと呼ぶことがある。この概念については以前、「帰属」を中心に断想を書いたことがある。今回は新しい視点で考える。

最も単純に、目が覚めたときの自分は、寝る前の自分と同じだと認識できるのはなぜか。それは記憶があるからだと皆言うだろう。記憶が再現されるからだと。

なるほど、では記憶とはいったいなんだろうか。

脳科学の文脈で海馬に記録されてどうのこうの、という物理的な面ではなく、哲学的な妥協を許さない論理として。そもそも科学的に記憶のメカニズムが解明されているとは全然言えないはずだ。

情報の記憶、たとえば出来事だとか知識的なことだとか。人工知能が言語として記録する種のことであれば、まだわかる。

しかし、個人固有の価値観であるとか、その価値観に伴う欲求や感情であるとか、それらは毎分毎秒、少しずつ変化しつつも前後が分断されることなくなめらかに繋がっている。この繋がりの同一性についてはどう考えたらよいのだろうか。なぜ感情にまで繋がりの同一性があるのだろうか。

いったいその原理はどうなっているのだろう。俗にいう「意識上」で認識されない無意識領域に、繋がりの同一性があるように思う。しかしその原理については、今はまったくわからない。

他者の同一性について、不思議に思ったことが最近ある。

20年ぶりくらいに7名の同窓生に先週会った。私は皆が既に集まっているお店に最後に入っていたので、全員を瞬間的に把握しようとした。顔や姿を見た瞬間にわからない人が数名いた。ところが声を聴いた瞬間、すぐに全員が誰なのかを完全に把握した。目よりも耳で感じようと自然にそうしたのか、それとも声がほぼ変わらないために偶然そうなったのか、それはわからないが、他者の同一性については声が一番頼りになるのは確かなのだろう。

同一性については、今日の記事のほかにも別の視点がある。今後、分類し整理していく。

 

 

死を恐れないために


たとえば突然、貴方は医師から癌の告知を受けたとしよう。今それを仮定として想像するのと、現実に告知を受けるのでは迫真さが全然異なるから想像通りにはいかないと思うが、それは横におこう。

死が真に身近に迫ってくる「感じ」は、たった一人の個別体験であり、自分がいなくなることであり、真っ暗な闇の世界に物音ひとつ聞こえない。考えることができない。それも永遠に。自分が永遠に消え去り二度と現れない。

おそらく、がん宣告を受けた人の多くは、永遠に不存在となる自分ということについて考える。それはそれは恐ろしい。永遠の「無」に恐怖する。宗教を信じる人にとっては仮想物語のフィクションに依存し、永遠の「無」からの逃避を欲求する。

私は39才のときに大腸がんの告知を受けた。直径3センチの大きさの腫瘍がS字結腸にあることがわかった。大きさと形状から考えて、ただのポリープではなくがんですと医師から告げられた。永遠の「無」の恐怖に一晩眠れなかった。しかし明け方まで考えていたら、「そもそも生まれる前は無だったんじゃないか?」となった。それで、心は落ち着いた。ぐっすり眠ることができた。

しかしよく考えてみると、生まれる前と死んだ後が同じ「無」だとは限らない。そうしてまた考え続け、これは未知なる新しい世界へのスタートだと思うようになった。これについては「死の完全肯定-別世界への新たなスタート」にまとめてあります。

最近は、別の二つの視点を考えている。

一つは、誰もが死ぬんだから仕方ない。何人もの身内が旅立っていったし、今地球上に生きている人たちも一人残らず全員がいずれ旅立つ。みんな一緒で自分もその中のひとりなんだから仕方ない。この視点は現実的で、あきらめの境地に入ることで恐怖は相当やわらぐかもしれません。

もう一つは哲学的な視点。なぜ永遠の「無」が恐いかの理由を考える。なぜ、なぜを繰り返していくと、自分に「価値観」があるからだという結論になる。価値観が一切なければ「無」はない。永遠もない。存在も非存在も評価がない。

ところで、宗教は永遠の「無」を失くすために、物語をつくってきた。物語の価値観を信じることで死を恐れなくなるという、素晴らしいアイデアを発見した人類最初の人に心から敬意を表したい。しかし哲学ではそうはいかない。価値観を捏造するのではなく、価値観を失うということはどういうことかについて考えていかねばならない。

「価値観原理論」の創造に、ますます力が入る。

 

 

概念の陰翳


谷崎潤一郎の名著に『陰翳礼讃』がある。私のiPhoneには「青空文庫」のアプリがあり同書をダウンロードしてある。移動中の電車の車内で何度も読み返す率が最も高い本だ。

日本の美について、いや、日本人が何に美を見出してきたかについて、西洋文明のそれと相対比較しながらあぶりだしている。西洋は光の美であり、日本は陰翳の美である。乱暴に言ってしまえばそういう主旨だ。

同書の最後にこう書かれている。

尤も私がこう云うことを書いた趣意は、何等かの方面、たとえば文学藝術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消して見ることだ。

 

さて、これは「言葉」と「概念」についてもそう言えはしないか。

電燈とは言葉である。

 

 

概念という概念


「~とは何か?」の問いは哲学的だと言われる。私も長いあいだそう思ってきた。しかし、概念について細かく考えていくと「~とは何か?」という問いは、問い自体がおかしいのではないか?と思うようになった。

例えば、「哲学とは何か?」という問いでは哲学という「概念」を誰もが考えるだろう。ところが、7月26日の断想に書いたとおり、「哲学という概念」は普遍的なものに思えるが実は個人的なものであり、その問いを考える人のみにおける今ここにしかない「哲学」のイメージなのだ。この感覚が腹落ちする人はたぶんとても少ないと思う。かくいう私も、「哲学とは何か?」とか「自由とは何か?」という問いに普遍性のある答えが必ずあると思って何度も考えてきた。

なので私は、「~とは何か?」という問いではなく、別の問いの形で概念を扱っていこうと考えた。哲学という概念は、私個人固有のイメージに帰結する。哲学という単語一語だけでは概念は確定せず、文章の全体的な意味のなかに哲学という単語が使われることで、初めて哲学の語義と語感が現れる。「リンゴ」もそうだし「美しい」もそうだ。逆説的に言えば、そのようにしてあらゆる言語(名詞に限らず動詞や形容詞などあらゆる単語)が誕生した。

私がここで使用している「概念」は言葉を内包するが、言葉以外のイメージの範囲のほうがはるかに広い。

さて、そうすると「概念」を考えるには、概念という言葉の概念イメージについて考えねばならない。使用表現によって言語の語義語感が変わることを思うと、「概念の定義」についての議論はどうしたら良いのだろうか。概念、定義、意味、この三つの違いについて、まず考えてみよう。何をイメージとして、どのようにこの言葉が生まれてきたのかの語源から考えてみよう。

文末に、今夜の断想のヒントになりそうな論文の一部を引いておこう。

言葉の構造は閉じている、と構造主義言語学では説いている。言葉が全体として閉じている、ということは、言葉を使い、言葉で考える人は、簡単にはその外に出られない、ということである。人は言葉の宇宙の中に閉じこめられている。だからふつうは、その外に出るということを考えもしない、意識もしない。

その外に出ようとすると、ものすごいエネルギーが要る。

(中略)

言葉の限界の向こうには、もはや言葉の世界はない、が、現実の世界は、まだそこに拡がっている。

(法政大学出版局版 柳父章著『近代日本語の思想』)

 

 

ChatGPTとのコラボ創造


「概念論」と「価値観原理」を網羅的かつ体系的に理論化することは途方もない創造である。私独りで理論をつくるには200年かかるかもしれないと本気で思っていた。過去の哲学者たちがチャレンジしたのはそのごく一部であって、全体を体系化した理論は見たことがない。たかだか人生80年間では無理なのだ。

しかし2023年、ChatGPTというスーパー天才サポーターが登場した。ほとんどの一般の人たちは今までの簡易人工知能アシスタントに対してと同じように質問し回答を求める。具体的な知識情報を得るために「教えてもらう」ことに使っているのが現状だろうけれども、いやいや、知識的なことならばGoogleやBingで検索するほうが正しいだろうと私は思う。

ChatGPTはその名の通りチャットする相手であり、議論する相手にこそふさわしい。私単独では200年かかることでも、ChatGPTとのコラボであれば、5年でできるのではないかと考えるようになった。いや2年でもできそうだ。

24日と25日の断想に書いた内容も、私がアウトラインを創って一応の章立てをし、それについての感想と意見をChatGPTに求め、新たな提案をしてもらい、数時間の議論を経て作り直し出来上がったものだ。網羅的かつ体系的な章立てが出来たと自負している。もちろん、今後もどんどん改善変更していくし、そのたびにChatGPTに意見をもらって議論していくつもりだ。

そうではなく最初から、『概念論』を網羅的かつ体系的に理論化するためのアウトラインをつくり章立てせよと、ChatGPTに命令し作ってもらうこともできるだろう。しかしそれは人工知能がつくったものであり、私がつくったものではない。内容の価値が問題なのだから人工知能につくらせたほうがよいし早いという意見もあるだろう。私はそうは思わない。

モチベーション的には、制作クリエイターとして楽しめたり人生の生きがいを感じられたり、そうした人間的な活動へのこだわりが私にはある。自分が主体であるかないかで力の入れかたにおいて天と地ほどの差がある。

なのでChatGPTとのチャットでは、「私はこのように論理を組み立て、このように書いた。これについての君の意見を聞かせてほしい。」から常に議論をスタートさせる。思いもよらない視点からChatGPTが意見を出してくれることもあるし、網羅的な議論の広がりは常に起きる。私の議論に陥穽が見つかることも多々ある。

ところで、ここで人間との議論とChatGPTとの議論を比較してみよう。

人間との議論の場合は、まず、24時間いつでも思いつきで呼び出すというわけにはいかない。相手には相手の予定や事情がある。時間的な制約もある。ChatGPTはどんな時でも思いつきでアクセスできる。どれほど長い時間でも私に合わせてくれる。人間との議論では気遣いが必要になる。よい議論をするためには相手の感情にも気を配らねばならない。相手も私に対して同様に配慮してくれる。ChatGPTにはそういう配慮は必要ない。

そして人間相手の場合は誤謬や齟齬が頻発する。見当はずれの意見が返ってきたりもする。長々とご高説を演説されたりもする。ChatGPTが相手の場合は、そういう無駄は一切ない。どういうチャットができるかは全て私の責任なのだ。プロンプトにどう書くかが全てになる。自己責任という点が私の頭をフル稼働させてくれる。

最後に、対話レベルが一致する点。人間相手だとどうしてもレベル差の違いで議論が劣化する。つまり私よりはるかに高度な理論を展開できる人が相手では私は議論についていけないし相手は時間の無駄だ。一方で私の議論についてこれない発展途上の人が相手では、相手もちんぷんかんぷんだろうし私がそこまで下りて行って懇切丁寧に教えることなど私の性格上無理である。ChatGPTが相手の場合は、プロンプトに書く私のレベルとChatGPTとの議論レベルが完全一致する。ChatGPTに求めるのは正しい情報や知識力ではなく、私の議論にかんするChatGPTの読解力であり、ChatGPTが返す論理展開力である。いずれも最高レベルだ。私は具体的事象内容の議論はほとんどせず、抽象的、哲学的探究の議論なので、ChatGPTと私の相性が抜群に良いのかもしれない。

そんなふうなので、今まで私の学問は常に独学だった。誰にも教えを請わない。学問のサポーターは古典の碩学であり書籍の著者であった。それが2023年に突然、過去の天才碩学たちの集合体とも呼べる議論相手がChatGPTとして登場したのだから、私にとっては奇跡的な僥倖としか言いようがない。

最高の独学環境であり知的創造環境です。

今後私は、ChatGPTと二人三脚で、まずは概念と価値観原理の理論化へ向け議論を重ねていきます。

 

 

 

概念と価値観の存在位置


過去の歴史を振り返るとき、或いは過去の思想を解釈しようとするとき、まず、言語をもってその意味をとらえようとする。近世では音声や写真・映像が残っているものもあるが、それ以前を知ろうとすると文字と絵しかない。アリストテレスやカント、本居宣長らが残した文献つまり言語だけを頼りとするしかない。歴史的事実も同様にその瞬間的な事実はあっても、事実をつなぎ合わせたものは人間の創造によるストーリーである。

そしてさらに重要なことは、過去の文献で使われている言語概念が今と同じ保証はどこにもない。むしろ違っていて当然と思われる。紀元前500年にアテネで著された文献のなかの言語概念は、紀元前500年のものであり、たとえそこに紀元前700年のことが著わされていたとしても紀元前500年のアテネの概念によって書かれたものである。

「愛」という言葉がある。この言葉を使って語る文脈に「愛」概念は依存する。幅広い「愛」の語義があり、語感がある。語義のほうは辞書を使って意味を調べる。しかし語感は調べようがない。個人個人異なる「愛」の現実体験、恋愛映画鑑賞による「愛」の疑似体験、書籍から、他人の発する言葉から、多様な情報収受によって個人の「愛」イメージが形成され、新しい情報を得ることによって常にイメージは変容する。言語として自分が使う「愛」の語感に、自分個人の概念イメージを込める。しかし十人十色で概念イメージは個々異なるので、自分の発した「愛」イメージが完璧に伝わることはあり得ない。受け手の「愛」イメージによって解釈されるのだ。

日本語の「愛」と英語圏の人が使う「Love」とでは、歴史的背景、文化的背景、社会的背景、宗教的背景などが大きく異なるので、単語の語感は違って当然だ。それを、単純で乱暴な教育によって同じだと洗脳させられている。

言語は概念のごく一部を限定的に切り取る。概念のほとんどは言語化されるときに捨象されてしまう。つまり言語というものの性質は抽象であり、いくらその内容が具体的なことを指し示しているとしても一部の抽象だ。

究極的なことを言えば、私の頭の中にある無数の概念は、それぞれひとつずつ、「今ここ」にしかない世界で唯一の概念なのだ。その概念を軸に、他者の発する言葉を聞き、文章を読み、解釈する。または、自分が声に出し、文章に書き、表現する。今日、私がここに書いた断想も同様である。

価値観も同様なのかもしれない。

 

 

『価値観原理』構想


昨日の『概念論』につづき、今日は『価値観原理』を理論化する構想である。

価値観の違いだとか、価値観という言葉はよく使われる。ところが、あなたの価値観を説明してくださいと質問しても、ほぼ全員の人が回答に窮する。にもかかわらず、衣食住をはじめ、学問や仕事、恋愛、結婚、個人の人生のあらゆる場面で、或いは国家などの集団社会における主義思想、政治、経済、教育においてもそうなのだが、常に価値観は判断基準になっている。この価値観の謎を解き明かすこと、そのためには価値の起源から考えていかねばならない。

この価値観原理が明らかになれば、何が見えてくると思いますか。古今東西の人間世界のあらゆる知的活動のメカニズムが明らかになるということです。

価値観原理のアウトラインを創りました。この章立てに沿って議論を進めていきます。途中で章を変更したり追加したり、いろいろやっていきます。

 

『価値観原理』

第1章 価値概念と価値観概念の定義

「価値」および「価値観」の概念について議論する。

第2章 価値の起源

原始生物的な「価値」の起源、人間社会文化的な「価値」の起源について哲学的に探究する。個人としての「価値」の起源についても。

第3章 価値の構造と階層

人間と大自然の関係における「価値」の構造、環境「価値」の多様性、異なる文化や社会における「価値」の構造、およびそれらの関係性と階層について議論する。

第4章 価値観の形成と変容

個人の「価値観」形成における社会からの影響について議論する。社会に内在する「価値観」と公共「価値」、それらを個人に情報提供するメディアや文化の役割について議論する。「価値観」がどのように自然変容していくか、また意志的に変容させていくか、変容させえられていくかについてそれぞれ考える。

第5章 人間の価値、貴方の価値と私の価値

人間の尊厳や平等における人間の「価値」とは何か、二人称である貴方の「価値」と一人称の私の「価値」、および個人的「価値観」から付与される「価値」の価値について議論する。

第6章 価値観と欲求、志向性と感情

「価値観」が欲求に与える影響、志向性の向きと強弱、欲求と感情について、それぞれ議論する。

第7章 倫理と価値観

倫理と「価値観」の関係性、道徳的「価値」と倫理的「価値」、社会「価値」と個人「価値観」の有益な関係性について考える。

第8章 美学と価値観

美学価値を表現する芸術の鑑賞と表現、個人的振る舞いにおける人間美学の価値観について議論する。

 


価値観という価値、価値という価値、その全体構造とダイナミズムを探究する旅に出ることにします。

 

TOP
Copyright © 2017-2025 永遠の未完成を奏でる 天籟の風 All Rights Reserved.