可能性主義のステップ


昨年の4月13日に『可能性主義を提唱する準備として』という記事を書いた。未熟で自分の書いた文章だと認めたくないが、今書いているこの記事も来年の私にとっては認めたくない未熟な記事になるのだろう。自己嫌悪になるが仕方ない。

可能性主義の提唱を試みることについては一年たっても変わっていない。昨年と違っているのは、新たに開発した構造的思考方法が今はあるということ。可能性という概念についてどのように考えたらよいのかの、思考技術が今はある。

なぜ可能性について考えるのかという導入部分。可能性概念の起源。客観的定義と主観的定義を明確にすること。過去に対しての可能性、現実に対しての可能性、未来に対しての可能性、永遠普遍の可能性に分けること。主体としての可能性と客体としての可能性、名詞としての可能性、動詞としての可能性、形容詞としての可能性、このように可能性という概念を徹底的に分解することで、思考方法が更に更新されてゆく。

 

冒頭のとおり、私は「可能性主義」を良い価値として提唱しようとした。しかし今、考えが変わった。この断想記事を書きながら考えを変えた。突然、議論や持論を変えること、価値を変えることは私の得意技で、躊躇は一切ない。

前提として、「可能性」という概念について哲学的に「思考」することが必要で、ということは可能性の有無や状態において良い悪い等の相対評価はなく、一切の価値観の外に立たねばならない。なぜなら哲学する対象に固定価値を付ければ思想になってしまうからだ。もちろんこれは「哲学」と「思想」という概念についての個人的な定義によるものである。私は「哲学」を、無色で無価値の、純粋な論理と原理で構成される本質をとらえようとする知的行為としている。

そのような純粋な目で、まずは「可能性」という概念を、私の思考パレットに乗せて明らかにしていこう。

もはや「可能性主義」はごみ箱行きとなった。忘却だ。可能性についての議論を行う上で、「可能性主義」=良い価値という予定調和的なバイアスがかからないようにしておこう。

 

 

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