個人固有の無意識構造と言語の「場」


 

古代ギリシア哲学のプラトン、アリストテレスから始まった認識論について、以前から「subject」シリーズ (1)序 ~(10)で考察している。私独自の「観念論的視座ー実在論的視座―直接視座、のディオ・トレビスタ」の認識構造を構築し論理展開している。このシリーズの現段階での最終記事は7カ月前の (10)客観世界(改)

ここから更に新しい地図を描こうと思う。

今までは過去の哲学者全員がそうであったように、「人は」「人の認識は」を主語として「人類の認識は同じ構造をしている」が前提にあった。これを覆す。

というのも、記憶の仕方、無意識と意識の接続、そうしたものに全く異なる幾つかのパターンがあることを確信した。例えば記憶ひとつとっても、言語中心に記憶している人もいれば、イメージ中心に記憶している人、場所(場面ではない)中心に記憶している人、時間軸中心に記憶している人がいる。他にもあるかもしれない。多くはその混合だと思うが、現時点では人類の謎と言っていい。こちらは無意識領域。

もう一つは、意識上での言語の「場」の開きかたが個人によって異なること。常に意識上で言語の「場」を開いている人もいれば、私のように普段は全く開いていない人がいる。これはいったいどうしたことだろう。そして言語の「場」中心に思考を展開する人もいれば、私のように非言語のイメージ中心に思考を展開する人もいる。これは「思考の癖」どころではないと考えている。思考構造が違う。

アリストテレスもデカルトも、カント、フッサール、イギリス経験論者たちも皆、認識論を探究してきた哲学者全員が「人は」を主語としてきた。彼ら全員は間違っていたと、私はここに断言しよう。

個人によって認識論は異なる。と言っても人類数分があるわけではなく、幾つかのパターンがある。それは、段階的に、2かもしれないし7かもしれない。大別するならば10以上ということはないと思う。

この理論化は壮大過ぎて、当然、私一人の手には余るが、途中で死を迎えようともライフワークにしたい。

 

 

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