主体価値観と客体価値観


前の記事で予告したとおり、今回の記事では価値観の現象学的性質について、価値観を主体として扱う場合と価値観を客体として扱う場合に分け、正反対に異なる主従関係ともなりえる二つの、人間と価値観の関係を議論してみたい。

ことは簡単ではない。それどころか、現代社会に生息する人類の大多数が、価値観を主人として仰ぎ価値観に隷属している現状がある。複雑化する社会であるから、というわけでもなさそうだ。歴史を振り返ると古今東西、同様な現象に人類社会全体が覆われているように観察できる。「私は仏教徒だから」「私はリベラルだから」「私は保守主義だから」「私は実存主義だから」「私は唯物論者だから」などなど、固定された価値観と視座に、自分自身を隷属させレッテル貼りしている人間がいかに多いことか。まるで自分にレッテルを貼ることが素晴らしいことのように胸を張って。

いやいや、逆だろう。

価値観は本来、人間の知能的活動に使う道具である。人間が主人であり価値観は人間に従属している立場のはずだ。なぜこの構図が壊され逆立ちしてしまったのか。

「価値観」という概念(価値観という言葉ではなく観念的なもの)は、まず宗教に現れる。原始宗教を含めさまざまな宗教を人間は生み出し、個々それぞれの宗教は「不変の普遍的価値観」を人間に対して提供しだすようになる。ここで既に、宗教が人間の主人になっていることが分かる。

不変の普遍的価値観を多くの人間が認めることで、人間は同じ価値観を共有し、その集団への帰属欲求が満たされる。価値観の安定が安心となり安全となり、精神的不安と危険は減衰する。しかし一方では、価値観に隷属することで頭は楽を覚え、独自に考える知能を使わなくなるため、普遍的価値観による愚民政策を統治者が敷くようなものとなる。かつては政治的統治に、宗教がよく使われていたし今も使われている地域はある。宗教だけでなくイデオロギーも普遍的価値観を提示する。社会集団的に同調圧力をかけることを企図し、人間の心と行動を支配しようとする。

ところで、それに輪をかけるように、哲学は「思想」や「主義」、あらゆる価値観を主体としてテーマ化し、宗教とともに「真理」にスポットライトを当て続けてきた。これを「哲学の罪」と言っては言い過ぎだろうか。ひとつの視点として、哲学は価値観に対して「従」の立場となり、価値観に対する哲学の役割を考えてみようじゃないか。

確かに、価値観そのものについて、独立した主体として考えることは欠けてはならない考察志向である。私も8月2日の『価値観の現象学的性質』ではこの志向で考えようと試みた。できたかどうかは怪しいが。しかし改めて考え直してみると、「主体としての価値観」「客体としての価値観」のあいだにきっちりと線を引き、明確に二分割させて考えなければならないなとなった。

特に、「客体としての価値観」について考えることは、価値観に隷属的となっている人類個々の人生にとって、とても有益なヒントになるはずだ。これについては確信している。

 

 

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