リベラリズム考(7)―自律


 

水の人モード

リベラリズム考(6)―個人主義(ⅱ) からのつづき。

 

前記事の後半で言及した「自律」については、個人主義において重要な位置を占めると思うのでもう少し掘り下げてみたい。

まず、西尾幹二氏の言葉を引く。

ことさらに社会的意識を標榜せずとも、ただ「個人」であることによって、じゅうぶん社会化された個性を発揮できるというのが真の個性の意味なのである。(中略)

「個人」が自律的であるということは、「社会」からの解放や自由や独立を意味してはいない。そう考えて、ヨーロッパにおける「個人」のあり方を権威からの解放や、反封建、因習打破の目じるしにしたところに日本近代が大きな「空虚」にさらされることになる原因があったといえよう。

自律とは、解放によってははたされない。むしろ帰属によってはたされるべき性格のものである。ただ、帰属とは、同化であってはならない。自分と他人との区別を曖昧にし、肌暖め合う家族主義的集団のなかに没入し、同化することは、けっして帰属にはならない。

(西尾幹二著 『個人主義とは何か』 p108-109)

 

ヨーロッパの個人における自律とは、社会と個人との緊張関係があって初めて生まれるものだ。宗教関連の社会集団(例えば教会)とのかかわり、仕事をする上での経済にかんする組織(例えば会社)とのかかわり、プライベートの趣味スポーツ等にかんする集団(例えばチーム、ボランティア)とのかかわりなど、常に複数の社会集団と自分との関係がある。

そうした社会集団の秩序はわが身にとっては他律である。

複数の他律と自分自身が協調するために自律が必要なのであって、個人であるために自律が必要なのではない。フリーの立場になることやジプシー、ボヘミアンになることと自律とは無関係だ。自立や自由ではない。

そして社会集団に帰属する際、なれ合いの同化であってはならないと西尾氏は言うのである。先に書いたように、ヨーロッパ人は自分が良くなるために、社会が良くなることを必要としない。共同体と信頼関係をもって依存することを求めない。

複数の社会集団とかかわりを持つなかで、自己を主張し精神バランスを保つうえで自律が必要不可欠となったのがヨーロッパ社会である。厳しいドライな感覚を個人個人が所有していることを、彼らは個人間で暗に了解しているのである。

 

 

視点を変えて、外に対する主張としての自律ではなく、自分自身にとっての自律における内面的価値はなにかを考えてみる。

今回のリベラリズム考シリーズの (2)啓蒙 では、フランス、ドイツ、スコットランドの、それぞれカラーが異なる啓蒙思想を学んだ。そのうちのドイツ啓蒙思想、主にカントの知見が自律についての考察を深化させてくれると思う。

 

〇 自己自身に責めのある未成年状態から脱却すること

〇 常に自ら思考するという原則

〇 先入観からの解放

 

私たちは他律に囲まれている。

国家の法律や地方自治体の法令。現代倫理観やマナー。宗教信仰している人はその宗教の教義。傾倒している思想や主義、イデオロギー。会社に所属していれば会社の内規。家族間や友人間で暗黙のうちに取り決められている約束事項。さまざまな場面での作法のようなもの。一般常識と言われる何か。他にもまだまだあろう。

他律に自分を委ね、何もかもをその他律の判断に照らし合わせ、是非を確認しようとする現代人が激増しているように感じる。法的な判断に従えと。道徳的に判断してどうのこうのと。既存の法や道徳を当てはめ、判断を他律に委ねれば良いと。それは確かに気楽で合理的なのかもしれない。しかし、人格みずから責任を負わずに逃げ、他律に責任を負わせるという態度はその人の存在価値を自ら放棄しようとすることにほかならない。なによりも思考停止だろう。

自律とは、カントの述べているように「常に自ら思考するという原則」に沿って、既存の法や道徳の「先入観」から自分自身を解放し、「未成年状態から脱却すること」がそれである。

 

より重要なことは、カントが人間の尊厳の根拠を、門地・身分といった伝統的・封建的な価値にではなく、自律もしくは自律によって導かれうる道徳性におくことで、あらゆる人格の尊厳と平等を基礎づけた点にある。(『岩波哲学思想事典』 p799 )

キリスト教がヨーロッパを席巻していた時代、貴族、王族、小市民といった身分制度が人物の価値を決定していた時代、カントは実に革命的な論をぶち上げていたのである。

しかしカントの主張を理解すればするほど、自律とは厳しいものだ。

信仰している宗教の教義、既存の道徳観、尊敬する誰かの人生論、そうしたもの一切は他律(Heteronomie)的原理にすぎないとカントは批判する。借り物の他律を自分の信条にしたところで、牧場に飼われている乳牛と変わりはない。

つまるところ、啓蒙活動によって社会から与えられるリベラリズムも他律なのである。自律とは、みずからの理性によって内発的に創造するものであり、ある程度の長い年月をかけて、或いは何かの機会に一皮むけることがあって(それも一度だけではなく)、実践し反省し醸成されてゆくものだろう。

その前提には、他律で気楽に暮らす緑の牧場から危険な野生の地へ踏み出そうとする意志が不可欠である。

 

カントは自身がキリスト教徒であることを否定しなかったし、キリスト教を直接批判することもなかった。しかし良く言われていることは、カントは神を半殺しにした。そして、神にとどめを刺したのがニーチェだと。

自律については、以下の、駱駝から無垢なる幼児への変化が参考になるかと思います。

ニーチェ著 『ツァラトゥストラはこう語った』・“三段の変化”

 

ところで、リベラリズムの淵源とされる啓蒙思想は、「いっさいに理性の光をあて、旧弊を打破し、公正な社会をつくる」ことが目的となっていた。

公正な社会。

ここでの公正は、Right や Fairness よりも Justice が適切だと思う。

次は正義について。

 

リベラリズム考(8)―正義 へつづく。