「発言が問題」とする人の心魂こそ真の問題


 

谷の人モード

今村雅弘議員が復興相を辞任した件。軽佻浮薄な現代社会の価値観が炙りだされているようにみえる。この件は、自民党二階派のパーティーで今村議員が、東日本大震災について「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」という失言がメディアに切り取られ辞任につながったというもの。

今村議員は今月4日にも、記者会見で記者に対し「君はなんて無礼なことを言うんだ!出ていきなさい!二度と来ないでください!」とぶち切れて、当日謝罪した。のちにこの記者は「日本の国会議事堂内にも慰安婦像を設置すべき」と発言していた反日思想の記者だと報道され、それもあってこの時には大臣辞任までには至らなかった。

安倍総理は「被災地に対する不適切な発言があった」と謝罪している。

報道で知る政治家や評論家、知識人の意見を総合すると、「東北の被災者の心を傷つけた」「復興大臣としてあってはならない発言」ということらしい。

マスコミや野党は「政府の気の緩みではないか」と言いだした。

「しばらくのあいだ、今村大臣には発言させるべきではなかった」という意見もある。

 

直観的に、まったくズレているのではないかと感じた。

 

なにが批判されているかと言えば、政治家とあろう者がそのような発言をしてはいけない、被災者に寄り添う発言をしなければいけない、TPOを考えて発言しなければいけない、気が緩んでいるから軽率な発言になる、気持ちはわかるが公では言ってはいけないというふうに、「発言」という現象がターゲットとなっている。

要するに「もっと上手く発言しろよ」ということであって、復興相として、政治家として、仮面をつけた役者を戦術的に上手く演じろよということにほかならない。

今村議員は、上手く演じることのできなかった駄目な政治家として非難され、他の多くの議員は下手な役者にならないように反面教師とするのである。政治家だけでなく一般市民もこれを見て、社会的に失脚しないよう発言に気をつけようとするのだろう。

 

違うでしょ。

 

問題の根っこはその個人の内面における心情や人格なのであって、それをひた隠しにし口で上手いことを言って世渡りしていくことが重要であるとする、現代社会の浮薄な風潮にこそ更に大きな問題があるのではないか。

性根や心魂というものが穢れてしまっている。

表面上だけを取り繕う仮面社会、上手に俳優を演じることが処世術だとする薄汚れたオトナの社会を見直していこうではないか、今村議員に限らず現代人の荒んだ心情、穢れた心魂を清めていこうではないかと、当事者意識をもって問題提起することが本来のメディアの役割であり、インテリジェンスの役割ではあるまいか。

 

社会学者の宮台真司さん(1959-)は大塚英志さんとの対談書『愚民社会』(2011)で、現代日本の社会風潮にかんして次のように発言している。

「任せて文句を垂れる作法」
「空気に縛られる作法」

「よく分からない大きなものに平気で依存する体質」
「全体性に無関心なまま平気で依存を継続する体質」

 

当事者意識の希薄性、依存性を批判しているがそのとおりだと思う。自戒を込めて。

今村議員や発言批判を他人事だとするのではなく、自分はどうなんだと内省しなくてはならない。

「被災者の心を傷つける発言」は、たまたま不用意に、穢れた心魂から“自然に”出てしまったのである。そして「仮面をつけた役者として、もっと上手く演じろよ」という「発言批判」は、より穢れた心魂から“自然に”出てしまっているのである。

自分の心魂はどうなのか、浮薄な社会に塗れれば心魂が穢れていくのは当然と言えば当然。私は心魂を絶えず磨き直そうとしているのかどうか。

考える良い機会をいただきました。